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モドル | ススム | モクジ

● 友達ごっこ --- 蓮子 ●

 朝、ミッフィーの目覚し時計がピロピロと鳴る音で、わたしは目を覚ました。
 両手にすっぽり収まるくらいの卵型をした小さなそれは、十才の誕生日に幼なじみが、買ってくれたものだ。
 手を伸ばす。目を閉じたまま、感触と音だけで時計を捜し、軽くボタンを押した。
 まだ少し重い瞼を無理やりこじ開けて、手のひらの中の時計の文字盤を見る。
 五時三十分、よし、遅れてないね。
 わたしの暮らすここ第三女子寮は、六つある寮の中でも学校の一番近くにある。計ったことはないけれど、学校まで十分とかからないと思う。だから本当はもっと遅く起きていいのかもしれない。でも、家にいる時は気づかなかったんだけど、わたしはどうやら人より行動ペースが大分遅いみたいで。
 二段ベッドを降りていくと、下段では蓮子が小さな寝息をたてていた。
 いつ帰ってきたんだろう。いつも謎なんだ。彼女はどんな時も、朝には必ず帰っている。
 蓮子を起こさないように気をつけながら、カーテンを開ける。まだ薄暗い。でも南向きの窓の左側から、少しだけどおひさまの光が差している。今日はきっと晴れるんだろうな。案の定、テレビを付けると――勿論、音量は最小限に絞って――、舌ったらずな新人アナウンサーが本日の快晴を告げた。
 ベッド脇にハンガー掛けしておいた、夏服ブラウスの白さが目に染みる。
 今日は待ちに待った衣替えの日。
 けれど。わたしはパジャマ姿のまま、カーペット床――年代物なのか、かなり毛玉がついている――に、ぺたんと座り込んだ。昨日起こった出来事を、思い返す。でも、それは夢の中であったことのように、現実味が湧いてこない。
 そう、全てが夢だったのかもしれない。でも机の上の携帯を見ると、しっかりと昨日の哲己くんからのメールが残っていた。
『よかったら、教室でも気軽に声かけてよ』
 その言葉の、どこまでを信じていいの?
 手のひらの中の携帯を見つめる。
 わたしはどうしても立ち上がることができなくなってしまった。

 ……

 いきなり、口の中にペパーミントの香りが広がった。舌に刺激が起こり、わたしは思わずむせてしまう。何が起こったのかを確かめようにも、かろうじて見えるのは、自分の口から出た赤く透けたプラスチックだけ。
 とりあえず携帯は通学鞄に入れ、赤い棒を引っ張り上げると……何のことはない、ただのハブラシ――ハミガキ粉付き――だった。
「目、覚めた?」
 ぶっきらぼうな声に振り向く。と、わたしの隣には、呆れ顔の蓮子がしゃがみこんでいた。しげしげとわたしの顔を見ながら。とりあえず、わたしは何度か首を縦に振る。と言うより、返事をしようにも、何かを喋れるようなコンディションじゃなかった。
「よろし」
 そう言うと、蓮子は混乱してるわたしにはお構いなしに、カーテンを閉め、服を着替え始めた。わたしに背を向けたままパジャマを乱暴に脱ぎ捨て、蓮子の白い肌が露になる。
 蓮子の肌はとにかく白い。きれい、というよりは病的なまでに真っ白だ。薄暗くなった部屋の中では、余計にそれが際立って幽霊みたい。それから、四肢は折れそうなくらいに細い。贅肉という贅肉は徹底的に排除してしまったような、凹凸のない華奢な身体。けれどすぐに下着とブラウスの布とでその身は隠されていく。
 突然、蓮子が勢いよく振り返った。じっと見ていたのがばれてしまったのかもしれない。怒られる、と思って咄嗟に身構える。
「今の、見た?」
 予想に反して、蓮子は抑揚のない声で一言そう言った。背筋がひんやりする程に冷たく、感情の読めない声で。
「えと、……えふに(別に)
 条件反射的に口に歯ブラシをくわえ、歯を磨いてるふりをする。
「そう」
 蓮子はそっけなくそう言った。何事もなかったかのように着替えを続けていく。
 何だろう、この違和感は。さっきの蓮子、変だった。いつもなら、とっくに怒ってる。何、人の身体ジロジロ見てんの――なんて。表情は薄暗くてよく分からなかったけれど。でも、怒ってるっていうよりは何かに脅えているように見えた。
「あ、永久、あんた余裕ぶっこいてるみたいだけど、もう七時過ぎてるよ。着替えなくても大丈夫?」
 え? 蓮子の声に、わたしは柱時計を見る。七時十二分。テレビ画面の左側に出たデジタル表示を見る。……七時十二分。見間違いなんかじゃない。ということは、起きてからもう一時間半以上経ったというわけで……
「おーひへほへほはやふひっへふんないほ!」
 どうしてそれを早く言ってくれないの……と言ったつもりだったけれど、口の中に残ったハミガキ粉のせいで、意味不明な言葉になった。と、蓮子は冷ややかに言い放つ。
「……どーでもいいけど、まずはそのくわえたままの歯ブラシをどうにかしなって」
 いつもの、蓮子だった。

 

「ったく、……どうしてあんたはそうトロイかなァ?」
 わたしのお皿からミニトマトを取ってつまみつつ、蓮子は言った。
 あれから急いで支度を済ませ、一階の食堂――ちなみに、わたしたちの部屋は二階の角部屋だ――にたどり着いた。まだ寮生もまばらで、静かだ。お喋りも時折聞こえるだけ。
 にもかかわらず、蓮子はこの通りご機嫌ナナメだ。わたしの向かいに座ってはいるものの、顔に「不機嫌です」と書いてでもいるみたいに、感情を表に出し切っている。
 蓮子のハムエッグは、先割れスプーンで何度もつつかれた結果、ぐちゃぐちゃのスプラッタになってしまった。
「ごめん、ね?」
「本気でそう思ってるなら、さっさと食べな」
 今度はわたしのお皿からきゅうりをさらっていく。蓮子は生野菜が好きなのだ。
「だって、怒ってる」
「……怒ってなんか無い」
「嘘、怒ってるよ」
「怒ってなんか無いってば!」
 はた、と気づいたように蓮子は咳払いをする。ともかく、と仕切り直し、早く食べなさい、と無愛想に言った。
 こんなふうにどんなにキツイ言葉を言っても、蓮子は絶対にわたしを最後まで待っていてくれる。だからかもしれない、わたしは蓮子と一緒に居るのがとても心地良い。とろとろと暖かい日だまりにでもいるみたいに。
「もしかして今日、衣替えだったの?」
 唐突に蓮子が呟いた。そうだよ、と言う代わりに小さく頷く。口の中に残った粉っぽいパンを咀嚼しながら。ミルクを一口含んで飲み下し、顔を上げる。すぐに蓮子がそんなことを言った理由が分かった。
 彼女が着ていたのは、長袖ブラウスにベスト付きの中間服だったんだ。中間服は文字通り、冬服と夏服の間――季節の変わり目に着る服だ。
「……どうりで違和感があると思った。蓮子、中間服のままなんだもん。着替えてくる?」
「いい。って言うか私、夏服買ってないから」
「え、どうして?」
 スプーンをテーブルに置いて、思わず蓮子をしげしげと見つめてしまう。蓮子の細い眉が、少し困ったように寄った。
「別に大した理由じゃないって。……ただ、私が極度の寒がりだってだけ」
 そういえば。わたしの脳裏に四月の――出会ったばかりの蓮子が浮かんだ。学校指定の地味なコートを着て、震えていた蓮子が。なるほど、なんとなく納得だな。
「それに肌を出すと、日焼けするでしょ? 私、焼きたくないから。半袖着たときのシャツ焼けは最低じゃん」
「なんで?」
 馬鹿正直にそう尋ねると、蓮子は待ってましたとばかりに、口の端をにっとつりあげた。
「だって、格好悪くて子猫ちゃんの前で裸になれないでしょ」
 はい? 数十秒の沈黙の後、やっと意味を理解したわたしは、俯くしかなかった。きっと今私の顔は、蓮子が食べたミニトマトより真っ赤になってるだろう。蓮子は満足したように、思い切りけたけたと笑っている。多分、ううん絶対これはわざと、だ。からかわれたというのは分かっていても、顔を上げることができない。
「いやん、永久ったらえっち。なんか想像しちゃったかなー?」
 蓮子の意地悪……。でも多分、蓮子が夏服を着ない理由は、どちらも本当のことなんだろうな。何となくそう思った。

 

 教室の前――正確には木製の灰色の引き戸の前。小さく深呼吸をくり返し、目を固く閉じた。始業時間まではあと十数分ある。中に入る勇気がなかなか出なくて、わたしはその場に立ち止まってしまった。
「何で入んないの?」
 わたしの数歩後ろを歩いてた蓮子が、隣に来て訝っている。教室の中からは、楽しそうなお喋りの声が漏れてきた。哲己くんはこの中にいるのかな、いたとしてもわたしが声かけてもいいのかな。不安は募るばかりだ。昨日の前向きな気持ちが嘘みたい。
「あんたが入る入らないは勝手だけどねェ……とりあえずそこ、どいてくれる? 中、入りたいんだけど」
「あ、ごめん」
 わたしがそこから下がると、蓮子はいとも簡単にドアを開けてしまった。
「はよっ」
「あ、おはよー、蓮子サン」
 蓮子の挨拶に、すぐ教室にいた何人かが反応した。席はもう半分は埋まってる。その殆ど全員が、蓮子に挨拶を返した。でも、一番早かったのは哲己くんだった。ますます中に入りづらくなって、わたしは一歩あとずさる。
「何、こてっちゃんもう来てんの?」
 蓮子が珍しい物を見るかのように、哲己くんを凝視した。彼はいつも遅刻スレスレに学校に来るから。
「俺だって、たまにゃー早く来るって。それより、蓮子サンが遅かったんじゃねーの」
「やー、ウチの女房が駄々こねてサ」
 そう言うが早いか、蓮子は教室の外にいたわたしを引き寄せて、にかっと――歯をむき出しにして豪快に笑った。あんなに悩んだのに、入ってしまうのは一瞬……。あっけにとられて、わたしは蓮子を縋るように見つめることしかできなかった。
「あ、永久ちゃんもおはよー。朝から大変だね、蓮子サンに振り回されてさ」
 苦笑したような哲己くんの声。びくりとして身構えてしまう。おはようと言ってしまえば一言なのに、喉がカラカラになって、言葉が出てこない。
「あ、えと……ごめんなさい」
 消え入るような声で、そう呟くのがやっとだった。すぐに蓮子の腕をすり抜けて、自分の席――廊下側の一番後ろに逃げ込む。
「? 俺、何か悪いこと言ったか?」
「こてっちゃんのせいじゃないって。ウチのは恥ずかしがり屋なんだからサ、照れてるんだって。それより、前から永久のこと名前で呼んでたっけ?」
「や、まあ、な……。ま、んなことどうでもいいだろ」
 机の上に突っ伏したわたしの耳に、遠くで蓮子たちの声が聞こえた。たった一言なのに、みんなは何でもないことなのに、わたしにはその「おはよう」が言えない。
(こんな時、勲雄がいてくれれば……)
 湧いて出たその考えに、私は何度も何度も頭を横に振った。……勲雄離れをするために、わたしはこの学校に来たんだから。
 気分を切り替える為に、ぱちりと頬を思い切り叩く。まずは哲己くんに謝らなくちゃ。わたしは鞄の中から携帯電話を取り出した。
「何してんの?」
 蓮子の声に、わたしは顔だけで振り返った。手はメールを打ちながら。
「哲……中神くんにさっき無視しちゃったこと、謝ろうと思って」
「こてっちゃんに?」
 蓮子は眉を潜めて、腕を組む。
「でも、あんた一方的にヤツのこと嫌ってなかった?」
「嫌うだなんて! ただ、ちょっと苦手かな……って思ってただけで……」
「似たようなもんじゃん。それより『思ってた』ってどういうこと? 過去形になってる」
 蓮子、鋭い。仕方なく、メールを打つ手を止める。簡略化して昨日のことを蓮子に話した。もちろん、告白メールについては、約束通り内緒にしておいたけど。
「ふーん。あれ、永久のアドレスだったんだ」
「永久のアドレスだったんだ……って、どういうこと?」
「や、細かい数字とかアルファベットとかごちゃごちゃしてるの覚えるの苦手だから。こてっちゃんにメールアドレスか携帯電話を教えて欲しいって言われた時、咄嗟につい、ね」
「つい、って……」
 あまりにあっけらかんと言う蓮子に、わたしは絶句することしかできなかった。
「いやーそっか、永久のだったのかー。どうりでスラスラ言えたはずだ」
「酷いよ。その蓮子の咄嗟につい、のせいで、わたしは……」
「酷い? 酷いのはあんたでしょ。責任転嫁はやめな」
 がらっと――本当に仮面を一枚取ったかのように、蓮子の顔が、声色が一転して冷たくなった。でもこんなときでもわたしは、ただ蓮子を無言で見つめるしかできない。書きかけのメールもそのままに、携帯を床に落としてしまった。
「確かに、人のメールアドレス勝手に使ったのは悪かった。謝る。でも、さっきこてっちゃんのこと無視したのはあんたじゃん。どんな理由があったにしろ、謝罪するなら本人に直接。……どうしてメールなんかに頼る?」
 何も、言い返せない。蓮子はため息を漏らした後、呆れたように呟いた。
「ま、勝手にすれば?」
 蓮子はまっすぐに自分の席――前から二列目の窓際へと戻ってしまった。あんたなんてもう知らない……そう言われた気分だった。 ゆっくりと拾い上げた携帯は、いつもよりひんやりと冷たかった。
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